旧山崎家住宅
宝光寺
hinui
400年、江戸時代から続く歴史ある寺
約800年前、日貫には東屋城(あずまやじょう)というお城がありました。
城主の藤原玉光(ふじわらのたまみつ)が、自身の信仰のために建立した「薬師堂」が宝光寺の前身と言われています。
しかし、たび重なる戦いにより城もろとも崩れ落ち、残ったのは寺の名前と本尊だけでした。
時が経ち、約400年前。鳥取県の因幡国をおさめていた亀井茲矩(かめいこれのり)の死を弔うため、家臣の1人が出家し、位牌を持って諸国行脚の旅に出ました。
その道中で日貫に立ち寄り、薬師堂のご本尊をそのまま引き継いで「宝光寺」を建立、この地に亀井茲矩(かめいこれのり)の位牌を安置しました。
藤原玉光(ふじわらのたまみつ)が建てた薬師堂は、自身の名前をとって「玉光寺(ぎょっこうじ)」と名付けられており、そこから「宝光寺」となったと言い伝えられています。
その後、亀井茲矩(かめいこれのり)の息子、政矩(まさのり)は、津和野藩の初代藩主となります。
そうして宝光寺では、代々津和野藩主の御位牌を奉っています。
しかし、人口減少の波にのまれ、長らく住職不在に。
現在第26世の住職をつとめる山本昌利さんがやってきたのは約25年前のことです。
家族とともにIターンで、日貫に越してきました。
<インタビュー>
【宝光寺住職 山本昌利さん】時は今 400年の歴史をつなぐIターンの住職とUターンの息子